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はっきりの病名が付けられない体調不良――『症状医学』と『病名医学』

上工中国気功整体院 綱島へ

検査データの数字にたより切った現代医学だが、異常なデータがあれば、病名を付けてから、初めて治療に入れます。だから、検査データは異常がなければ、治療のしようもないはずです。しかし実際のところ、今の出来る検査だけで、すべての体調不良を病気として診断することが出来ません。残念ながら、われわれはこのような現実にいるのです。

もちろん、現代医学の進歩は否定できません。医学に関する議論をする前に、少なくとも一つのことにかんして明確にしておかなければなりません。医学と医者との区別、つまり、医学の全体ないし全体の医療関係者の医学の概念と、一人の医者とその医学の概念とは区別しておかなければなりません。

症状や徴候をとらえ、診療を行うことは今も昔も変わりがありません。今の医学と違い、検査機器などの検査手段が断然少なかった時代、数十年前までの医学においては、医者が患者に耳を傾き、聴診器や触診などの方法で、詳しく症状を聞いてくれたり、実際に目の前の患者からデータを収集したり、その症状について説明してくれたりしました。医者が使用する方法は主に医者自身の五感を頼りに、説明に用いた言語も、素人の患者になじみがありました。患者側により安心感を与えたのでしょう。

新しい物を一つ拾うと、古いものを一つ落としてしまう!人類の愚かが歴史的にいつまでも繰りかえています。

「昔が良い」というわけではないが、実際に、データしか見なくなった医者が患者さんに何だかの不安をあたえやすいのです。自称「プロ」、確かにプロですが、素人に説明が不十分なきらいがあります。素人の患者が実感しているのは自分を苦しむ症状なんです!しかし、データの数字は自分の症状とは何の関係があるのか、はっきり分かることが出来ないため、患者自身の困惑が解消するどころか、データの洪水に溺れ、ますます不安に落ちてしまいます。プロに任せば良いが、でもプロに任せられない気持ちも分かるような気がします。
現代医学は症状を軽視する傾向があります。これに反対、昔の医学は症状を解釈に重んじていました。本屋に並んでいる近頃の医学書を手に、なかを見てみれば、症状に関する説明は極めて少ないことを、十数年前から気がついています。遺伝子とか、分子レベルの分析とか、画像診断とか、新発見を求めるアカデミーの傾向がつづいています。
「症状」を話題にするのは、むしろ時代にふさわしくないほどでしょう。自分の症状を調べようとしても、本屋に行っても、症状を解釈する医学書はナカナカ見つかりません。時代の流れだから、経験によって症状を解釈するだけでは、医学の主流で無くなっています。だから、納得のいく答えはナカナカ見つからないはずでしょう。
このような潮流の中の医者の多くは、新しいことの学習に追われ、症状の説明に時間をかける余裕おろか、ふりむく暇もありません。このような時代の医学部から作り出した新しい医者も、言うまでもなく、多くは同じく染められました。最も憂慮すべきことは、医患格差が拡大しつつあり、つまり、素人の立場から見れば、検査機器になじみがなければ、医学の知識を理解することはますます困難になりました。医学の進歩から、患者が置き去りにされている現状も無視できません。

『症状医学』と『病名医学』と区別したほうが分かりやすいでしょう。

『症状医学』の場合、なぜそういう症状が出てくるのかについて、もっと真剣に取り込んできました。前世紀の半ばほどまで、東洋医学も西洋医学も皆、症状などを手がかりに、積み重ねてきました。  症状や徴候を解明したい気持ちが、医学の発展進歩を促す原動力といって良いほどです。

『病名医学』の始まりは、分類した一組の症状を集まって、病名を付けることからです。分かった病気に病名をつけると、いろいろ面では便利ので、昔から行われました。例えば、「癲癇」(てんかん)という病名は千年前から用いてきました。
しかし、歴史上、新「病名」ラッシュがありました。いつの間にかに、たくさんの新しい病名が出てきました。この現象は、新しい星に発見者の名前で命名する、新しい原理を発見して、自分の名前で命名する時代と重なります。
新しい名詞を用いるのはかっこいい事だけど、年代を経てば、病名がたくさん増えてきて、ある時点から、病気は「病名」を中心にとられることになりました。ある「病名」の主要な症状にしか関心を持たず、非重要な症状を無視してしまう傾向になります。つまり、具体の患者にあたり、症状全体に対しておろそかになってしまいました。非主要な症状しか持たない患者が、苦しんでいるのに、どの「病名」にも分類できなく、治療を論ずることが出来ない状態に落ちます。「対症療法」の方法が、つまり、症状を緩和する治療法があります。しかし、「病名」がはっきりしないと、どうしても腑に落ちないのです。医者側も患者側も。 

さらに現代になると、患者の主観の症状よりも、信頼性のある客観性のある検査に傾き始めました。確かに検査データは客観的、信頼性が高い、しかし患者の主観感覚の症状を無視する段階になると、複雑な人間性をもつ患者には、症状より、無視されている自分自身とさえ感じ始めるのです。

症状から発展してきた医学は、あまりに病名に束縛しすぎてしまって、まだまだたくさん解明していない症状を無視することになっています。説明、解明する義務があるにもかかわらず! 医学の研究が進んでいますが、現有の検査手段は不完全であることを忘れてはなりません。「データは「異常なし」だから、大丈夫だ。」と言うより、もっと納得出来るように説明してほしいです。

現実に、症状より、血液検査の数字データや、レントゲンや、CT、MRIなどの画像データなどが優先。次々新しいなじみのない検査方法が導入するに力を入れているのに、患者に苦しむ症状の説明がおろそかです。明らかに体調不良なのに、「データは「異常なし」だから、大丈夫だ。」と言われるだけは、患者の不安を取り除けることは出来ません。例えば、「原因不明」の「繊維性筋痛」などのような、わけのわからない病名をつけて、治療方法はないと説明され、納得のできる治療を得ることは不可能にちかいないでしょう。

患者側も、現在の検査データは全能ではないことを念頭の置かなければなりません。医学研究の進歩によれば、新しい知識が取得しているが、検査方法として実用できない分野がたくさんのがあります。これらの新知識をもとに、あなたの症状が解釈できるかも知れません。情報収集は医者側だけのことではありません。患者側も柔軟に色んな知識を身につけなければなりません。「薬を飲むことも治療、気功も運動も治療、有意な本を読みことも治療です。」と恩師の周稔豊先生に言われたときに感心して、「薬しか信じない」患者にも医者にもぜひ伝えたいと思いました。

古くからの中国伝統医学や日本漢方や、現代医学以前の医学などは、症状に関する記載は非常に豊富なのです。

中国医学の中に、一つの病気にまとめられない症状は、「証」という概念を用い、系統を建てました。例え「陰、陽、虚、実、寒、熱」などの「証」の分類があります。全部の症状を一つか二つの「証」にまとめるように努めました。すると、患者の体質の全体像を把握できます。「病名のある」病気も、症状を細かく分類し、いくつかの「証」に分類しました。この「証」を基づき、生薬や経絡ツボなどを選択し、病気を治療してきました。病名がなくても、症状に対する解決策としての「証」の概念が、一人の患者に対して、全体的にとらえようとの考え方はは現代医学より先を取っているように思えます。
また、「異常がない」より、まず「異常ががある」と認めてあげることは、患者を安心させます。

ツボを利用する中国気功整体や、針きゅう、漢方などは、豊富な経験を累積しています。「八段錦」、「太極拳」など導引術(気功)は病弱のからだを癒す運動方法も周知の通りです。「代替医学」といわれるが、問題が解決できれば、「代替」か「代替ではない」か、議論する価値はないでしょう。 試す価値があると思います。

病名がつけられないので、ある意味は「未病の状態」でもあります。 体調を改善する努力は、ある意味では、「未病を治す」とも言えましょう。落ち込む必要はまったくありません。

上工中国気功整体院 綱島へ
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by tsuboseitai | 2007-10-03 11:49